無言の紳士

image_03206私はとても恥ずかしがり屋で引っ込み思案な性格です。電車通勤していると、しだいに時刻も車両も同じ所に乗る人を見覚えるようになるのが普通でしょうが、私の場合はあまり周囲を見ることができませんでした。
他の人たちは誰がどの駅で降りるかをきちんと把握しているようで、なるべく早く降りる人の前に立ち、うまく座席を確保していました。
私は押されるまま毎日いろいろな場所に立ち、座れぬまま一時間は電車に揺られていました。ある日のこと、荷物が重かったので網棚にあげようとしました。
あげたなと思った瞬間、電車がガタンと動き、私の手はまだ荷物の持ち手から離れておらず直アドラバー私は荷物で前の座席に座っている初老の紳士を思い切りぶつ形になってしまいました。
頭が真っ白になり、「すみません、大丈夫ですか」を繰り返して紳士に謝り続けました。紳士はずれた眼鏡を黙ってかけ直し、無言のまま表情も変えませんでした。
その後、避けていたわけでもないのですが、出会わないまま数週間が過ぎました。そしてある日、私は再び紳士の前に立つことになりました。
今さらあのときのお詫びも言えないし、まだ許してもらえていないかもしれないと気まずい思いでした。ある駅で電車が停止したとき、その紳士が私を見上げて、黙ったまま後ろをみるようにというような仕草をしました。
振り返ってみるとそこには空席ができていました。会釈して座りましたが、紳士は相変わらず表情ひとつ変えません。それでも許してもらえたのだとほっとすると同時に、何か温かいものが胸の中を流れました。
以後も時々出会いましたが、ついに一言も言葉を交わすことなく、私は電車通勤をやめました。無言、無表情でしたが、心は通い合うものがあったと信じています。


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